ねぎし三平堂

2013/7/24 水曜日

前述の「おっさんに絡まれ事件」ですっかり陰をひそめてしまったように見えるが...「ねぎし三平堂」へもちゃんと行ってきた。

林家三平を知らない人も多いと思うが、昭和40年代に大人気だった落語家だ。僕なんかは、「ニキニキニキニキ二木の菓子」というCMが印象に残っているが、「ヨシコさん、こっち向いて」、「どうもスイマセン」「もう、大変なんですから」なんかも有名だ。

とにかくハチャメチャな落語をやる人で、噺が古典落語の本筋から脱線しまくって、そこで笑いがとれるという人だった。
「あれは落語じゃない」なんて故三遊亭円生師匠なんかも露骨に嫌っていたが、今見ても型破りな芸風は圧巻だ。彼はまた九代目林家正蔵=こぶ平と林家いっ平、海老名みどり、泰葉の実父でもある。

僕は三平の人生について知る機会もなかったのだが、ここへ来て思わぬ事実を知った。

三平の父は七代目林家正蔵だったのだが、急逝してしまった。当時の三平は駆け出しの落語家で、江戸時代から脈々と伝わる「正蔵」の名跡を継げるほどの実力を持っていなかったし、経済的にも困窮していた。

そこで海老名家(三平の本名苗字)では一時的に「林家正蔵」の名跡を他の落語家に貸すことにした。これが八代目林家正蔵である。八代目は三平が成長したら「正蔵」の名跡を返すつもりでいた。だが三平はそれを受けようとしなかった(これには三平の「好意」とする考えもあるようだが、三平にしてみると「正蔵」なんて大名跡を継いだら、今までのような型破りな落語はできないという考えがあったのかもしれない)。

そうこうしているウチに、昭和55年に三平の方が先に亡くなってしまった。八代目のエラかったところは、これを機にあっさりと「正蔵」の名跡を海老名家に返還したことだ。そしてすでに高齢だった八代目は「林家彦六」に改名したのだった。

偶然だが、高校一年生の冬、僕は彦六師匠の最後期の高座を見ている。三平の死の翌年の話だ。場所は国立劇場の演芸場だったと記憶している。いささか元気がないのと、呂律が回っていないのが気になったが、その翌月ぐらい倒れた師匠は、間もなくして亡くなられた。

「正蔵」の方がはるかにビッグネームなのに、なぜ晩年になって「彦六」に改名したのかは、僕にとって長年の謎だった。

彦六師匠は晩年に「マリオネット落語」なんていうのをはじめていた。黒子が操る人形とカラミをしながら落語を行うという実験的な試みだった。そんな師匠のことだから、大名跡に縛られるのが嫌で改名したんだろう程度にしか考えていなかった。

ここへ来たおかげでようやく経緯を理解することができた。落語界ではそれなりに知られた話なんだそうだが、ちいとも知らなんだ。

表札
海老名家に返還された「正蔵」の名跡が、今年になってこぶ平に継承されたのは、皆さんご存知のとおりだ。海老名家にとっては、家族から9代目「林家正蔵」を出すというのは、50年以上にわたる悲願だったのだ。

襲名披露でこぶ平があれほど泣いていた意味がこれでようやくわかったよ。

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