昭和19年 宮城県柳津への旅 [04] -のぶちゃんの話-

2020/7/24 金曜日

昭和19年 宮城県柳津への旅 [03] -107列車 北へ-)の続き

それから70年以上の時が流れた。
祖父母も柳津の姉夫婦も亡くなり、1980年代に柳津の家は処分された。
自然と柳津小野寺家との縁も疎遠となっていった。
いや...母の長兄だけは色々と関わりを持っていたのだけど、僕は近年まで柳津へ行った事すらなかった。

まだ母の記憶がしっかりしていた頃、"のぶちゃん"の消息を尋ねたら、
「さあねぇ。私が子供の時に大人だったから、もう亡くなられたのでは」と、そういう具合だった。

その"のぶちゃん"が94歳で存命というのを知ったのは2017年8月の事だった。
この時の事は「宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話」に書いている。
初めて訪れた柳津で、何かに引かれるように物事と物事、人と人が結びついていった。
そして旅の最後になって伝説の"のぶちゃん"にお会いすることができたのだ。

2017年8月15日、のぶちゃんと

“のぶちゃん"はとてもユーモラスな人で、面白おかしく昔の話をしてくれた。

印象に残ったのは「一銭すらくれやしねえ」「自分でおにぎりこさえた」という話だった。
その話によると、東北大凶作の時が柳津小野寺家の最大の危機だった。
東北大凶作とは昭和6年と昭和9年の冷害による大凶作の事だ。

この時は僕の曾祖父で"のぶちゃん"の祖父にあたる小野寺新六が柳津の町長(昭和4年~昭和8年)だった。だが「町長」とは名ばかりで実情は大変だったようだ。

その話によると「税金を払える人がいない。たとえ税金が入っても、まず部下に給与を払う。そうすると自分の手元にはほどんどお金が残らない」という状況だったらしい。

さらに家計を悪化させたのは、家業が米屋だった事だ。
前年の昭和5年は大豊作とデフレ不況によって米価が大幅に下落したため、すでに農業経済は破綻寸前だった。そこへ翌昭和6年、次いで昭和9年の大凶作が続いた。その間に昭和三陸地震も発生しており、東北への経済打撃は深刻だった。こうした東北の疲弊は二・二六事件の遠因となり、強いて言えば太平洋戦争に至る遠因ともなっていた。

「そりゃああなた、誰も米を売りに来ないんだから、そもそも売る米がない」と、"のぶちゃん"は言っていた。

東北の凶作を報じる朝日新聞(昭和6年10月31日)

大正時代までは柳津の高額納税者に名を連ねていた小野寺家も、米屋を廃業せざるを得なかった。「古着を売りに出し」「馬車で材木を売り歩き」「ついに両親が樺太まで出稼ぎに行った」と"のぶちゃん"は話してくれた。

小学校から帰ってくると、どこの家でもお小遣いを一銭子供にやって、これで駄菓子屋で何か食べておいでと言うものなんだけど、一銭すらくれやしねえ。仕方がないから自分で御鉢に残っている御飯とお味噌とでお握りをこさえて、それを食べて遊びに行った。柳津の人は"町長さんのお孫さん"と持ち上げるのだけど、一銭のお小遣いすらくれやしねえ。

のぶちゃん証言 2017年8月15日

青森や岩手あたりでは松の皮をはいで飢えを凌ぎ、飢えた子供たちが大根をかじったり、線路に群がって食堂車の乗客に食物をねだり、女児は身売りされたというから、おにぎりを作れた"のぶちゃん"は、まだ幸せだったかもしれない。

その状況はどこまで続いたのだろう。
“のぶちゃん"は尋常小学校を卒業すると、そのまま女中奉公に出された。おそらくその時期は昭和10年前後だったのではないか。

“のぶちゃん"は「私は学がねぇもんだから御飯炊く事しかできねぇ」というように自嘲していたけど、その話しっぷりは理路整然としていて、ユーモラスで、記憶力も抜群だった。

“のぶちゃん"は曾祖父の新六から論語を教わっていたという。また近所の子供を集めて勉強を教えていたという。祖父の五一は、のぶちゃんを女学校に通わせたいと見学に連れていっていた。時が時ならば教師になっていたかもしれない。若い頃の曾祖父がそうだったように。
でも東北大凶作、サイパンの玉砕...時代がそれを許さなかった。

のぶちゃん

祖父母のなれそめの話も初耳だった。
“のぶちゃん"の従姉妹が仙台の祖母の実家(鈴木薬局)に女中奉公していた。それが縁で祖父母はお見合いをしたんだという。"のぶちゃん"自身も鈴木薬局を何度か訪れて家事の手伝いをしたのだそうだ。両方の曾祖父母を知る"のぶちゃん"は親族の中で間違いなく最高齢で、貴重な時代の証言者だった。

帰り際に聞いてみた。自分の中では推測と推定の域を出なかった謎についてだ。

「昭和19年に九品仏から柳津へ戻られましたよね?」
「はい」
「あの時に、私の母を連れて帰ったと思いますが、覚えていますか」
「東京はいつ空襲が始まるかわからなかった。恭子ちゃんは本当にかわいい子でね。かわいそうだから一緒に連れて帰った」

この時の旅は、この答に巡りあうための旅だったんだと今でも思っている。

それから毎年のように"のぶちゃん"に会いに行った。
二度目は母親を連れて行った。おそらく"恭子ちゃん"と"のぶちゃん"は73年ぶりに再会したのだと思う。悲しい事に母の記憶は何もかも失われてしまったが、のぶちゃんは涙を流していた。
もっと早く来れば良かったと悔やまれてならなかった。

父、"恭子ちゃん"と"のぶちゃん" 2018年6月23日

三度目は2019年10月28日の事だ。
叔父...昭和19年当時はまだ赤ちゃんだった母の弟と一緒に行った。
のぶちゃんは布団の上にずっと横たわっていた。会う度に"のぶちゃん"がどんどん弱ってきているのは感じたけど、会話を続けるうち次第に色々と思い出して語り出すのには驚くしかなかった。

最後、のぶちゃんは布団の中から、我々の方を見て名残惜しそうにずっと手を振ってくれた。
とてもとても長い時間手を振ってくれた。
それがのぶちゃんの最後の姿だった。

そして2020年6月29日、のぶちゃんはその長い旅を終えた。享年97歳。
母と二人で柳津へ疎開してから76年と5日目の事だった。